何で毎週土曜日、週6日現地校に通ってまで学校に行かなきゃいけないんだろう。そんなことは補習校に通ってる誰もが一度は思ったことだろう。確かに せっかくの土曜日まで朝早く起きて勉強しなきゃいけないのは面倒くさいし、嫌になることもあるだろう。親に言われて嫌々通ってる人もいるだろう。でも、補 習校はそんな苦に思って行く場所じゃないはずだ。
僕にとって補習校はただ日本語を学んで、一度は現地校で見たことのある数式を復習して、苦手な歴史を習う場所ではない。今になっては立派な母校だ。 でもそれ以前に僕にとってはどんな店でも買えない思い出の宝箱である。小学校1年生から高校2年生まで通った11年間の1分1秒は 今でも記憶に残ってる。
小学校の運動会は毎年楽しみにしていた行事の一つである。夏休みに入る前の一大イベントに家族で毎年参加していた。6年連続最下位の徒競走も今となっては楽しい想い出のひとつだ。学年が上がるにつれて変わる種目も最後に保護者会からもらうお土産袋も楽しみのひとつだった。
運動会が中学・高校になると今度は球技大会になり学年同士の競争が激しくなった。いつも決まって若い中学1年は負け、ピークの中学3年が圧倒的に全 種目を制し、人数の少ない高校2年は大抵まける。今でも鮮明に覚えてるのが僕が中学3年のころ担任だった先生が夏休みと同時に日本に帰国してしまうという ことで、クラス一丸となり、男女共に全種目優勝したことだ。この年僕らが何気なく着たクラスおそろいのシャツが今では、学校の伝統になった。
卒業した今でもまだ友達や先生方と連絡を取り合ったり、たまに補習校に挨拶にも行く。昔からよくしゃべってたせいか 毎年何十人と生徒を受け持つ中で、担任の先生方は僕のことを憶えていて下さる。街中で偶然あって先生と思い出話ができるのは想像以上にうれしいことだ。
今では卒業、帰国して皆バラバラの場所で大学に通ってる人もいれば、もう職についてる人もいる。めったに会うことのない友達でも会ったときはついこ の間まで一緒にいたかのように接する事が出来る。こういう特別な絆は補習校生活から生まれたのだ。学年が上がるにつれてクラスメートは減っていったけどそ の分皆仲良くなっていった。補習校が架け橋となり,会うことのなかったかもしれない日本人たちと出会うことができ、かけがえのない親友達もできて、今では 友達がアメリカ、日本と色々なところにいる。
最初は嫌々連れて行かれてたかも知れないけど、11年間毎週休まずお弁当を作り、送り迎えをしてくれた両親に今ではすごく感謝してる。今こうして日 本語を読み書きできるのも補習校のおかげである。補習校は僕にとって文化、母国語、そしてほかでは学べないたくさんのものを与えてくれた。今の僕は補習校 なしでは存在しない。
独古 礼二
SJ校1995年度入学 2005年度高等部修了。
現在は Cal Poly Pomona校に在学中。
2010年度のやまなみの記事をそのまま再掲載しております。