補習校での想い出はパズルのようであり、数えきれないほどありますが、一つ一つが補習校ならではの特別なもので、それらを振り返ると補習校を卒業した事を僕は誇りに思います。
2000年の夏、僕はサンフランシスコ日本語補習校に小学3年生として入学しました。当時は恥ずかしがりやだった僕は自分の気持ちを表に出す事を苦手としていたのですが、黒板の前に立たされ担任の先生が『日本から来ました、関崎大地君です。 皆仲良くしてあげてね。』と僕を紹介しているときに見た光景には驚きを隠せず、未だ鮮明に脳裏に焼き付いています。『日本人の顔をしていないのに皆日本語で話している。すごい。』本当に度肝を抜かれました。始めからとても良い刺激を与えてくれた補習校ですが、不満が一つありました。それは当時、同じ学年であった生徒の殆どが掲げていた不満で、『どうして土曜日なのに学校にいなくては?』というものです。これは補習校に通った事がある人なら1度は思った事がある悩みの定番と言っても過言ではないでしょう。辞めたくなったことも何度もありますが、辞めたら日本語で通じる場所が無くなると思い、通い続けました。英語を学ぶのが大の苦手だったので現地校で言葉を使わずひたすら大好きなサッカーを通して友達とふれあっていました。言いたい事が言えない、相手の言っている事も半分ぐらいしか理解していない、そんな思いが募る中土曜日にも関わらず日本語が使える補習校は僕にとってオアシスでした。
現地校では無口だが補習校では話せるというこの絶妙なギャップが僕の性格を180度変えました。恥ずかしがりやでいつもひき気味だった自分が明るく前向きに前進し始めそれ以来、補習校へいくのが楽しくなり、次第に『あと○日いけばまた補習校だ!』と思えるほどにまでなりました。補習校では勉強以外の活動も増え、学校へ何らかの形で恩返しがしたくクラス委員、図書委員、球技大会委員、生徒会副会長まで様々な生徒活動を行いました。高等部卒業後、大学が始まるまでの1年間を補習校幼稚部のアシスタントとして働きました。
幼稚部の仕事のお話をもらったとき『自分が補習校で学んだ知識を次の世代に教えるチャンスだ』と思い、やる気に満ちていたのを覚えています。ここでは5、6歳の子供達が通っていて日本語や日本の文化の基礎、そして友達をつくるという人間関係を様々な活動を通して教えました。クラスはいつも子供の持つ純粋且つわんぱくな活気であふれていて小、中、高等部のどこにも無かった独特の世界がありました。元気いっぱいにはしゃぎまわる子供、黙々と絵を書き続ける子供、恥ずかしがってなかなか話さない子供、幼児一人一人に豊かな個性があり、彼ら全員に何かを教えるのは予想以上に大変でした。僕は幼稚部の一日でいつも楽しみにしていた時間があります。それは幼児達も常に待ち望んでいる休み時間です。休み時間は椅子に座っていた子供達が解放されたかのようにのびのびと遊んでいるのが見れて本当に幸せな気持ちになりました。楽しい休み時間にいつも決まってやる事がありました、それはサッカーをする事です。僕がボールを蹴って走るとそれを一生懸命追いかける子供達。その中に授業中は静かな子供も混じって一緒に走っている姿をみるとアシスタントとして彼らに受け入れられたんだなと実感します。言葉でしか伝えられないもの、逆に言葉を使わないから伝えられるもの。その二つをうまく使い分ける事により良いコミュニケーションがとれると学びました。
初めは親に勧められて通っていた補習校。今となっては通いたくても通えない補習校。今こうして日本語で文章を書いたり読んだりできるのも毎週土曜日、補習校へ通っていたからです。いつか先生が言っていました。『補習校は日本語を学ぶ所ではなく日本語で学ぶ場所だ。』 本当にその通りだと思います。日本語で学問を勉強するにあたり自然と言語も身に付き、いつ日本に帰っても不自由なく日本語が使えるようになっています。これも辛抱強く自分達に教えてくださった先生や一緒に通い続けた友達のおかげです。在校生達には会うたびに『高等部までちゃんといきな。』と決まり事のように言っています。学年が上がるにつれ仲間との絆が深まりクラスメートと言うより家族の一員に思えてきます。補習校でたくさんの想い出をつくり、卒業する頃にはすばらしいパズルが完成するでしょう。
関崎 大地:
2000年 SF校に小学3年生として編入。
2009年に同校高等部修了。
現在University of California, Davisの1年生。
2010年度のやまなみの記事をそのまま再掲載しております。